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ブリンマーの津田梅子 後編

しかし、日本においては梅子に十分な仕事がなかった。またア
メリカに比べて、あまりにも日本女性の地位が低いことを見た梅子は、しだいに女子教育に生涯の目標を定めるようになった。そして1889年、25歳のときに再びアメリカに来て、ブリンマー大学に入学したのである。この大学は1885年に創立されたばかりの、新しい意欲にあふれた女子大学として知られていた。梅子はアメリカの知人たちの勧めもあって、この大学に入ったのである。そして彼女はブリンマーで生物学を専攻した。梅子は文学面にもすぐれていたが、他方、理科的な学科に抜群の能力を持っていたのである。これは梅子の父の津田仙が農学者であったことによる影響も考えられよう。梅子は、生命の神秘を究めてゆく生物学に興味をひかれて熱心に研究し、指導教授のモーガン教授との共同研究で「蛙の卵に発生に関する研究」という論文をまとめている。この論文は、1894年、イギリスの権威ある学術雑誌『季刊マイクロスコピカル・サイエンス』第35号に掲載された。


優秀な成績を収めた梅子は、研究者として残ることを大学から要請されたほどであった。しかし、日本女子教育に尽くしたいという彼女の決意は固く、3年後には帰国した。またこの間、教育・教授法の研究のため、彼女はオンタリオ湖の瑚岬にあるオズウィゴー師範学校で学んでいる。
日本に帰った後、さまざまな努力によって、梅子は念願の女性の高等教育を目指す学校を東京に開くことが出来た。名は女子英学塾である。1900年のことであった。最初の入学制は10人であったが、梅子の理想に燃えた教育のもとで、入学者は次第に増加した。この学校の運営にあたっては、アメリカの友人達の協力も大きかった。女子英学塾は今日の津田塾大学である。
一生を女子教育に尽くした梅子は、1929年に65歳で亡くなった。墓地は津田塾大学の中にある。ブリンマー大学と津田塾大学とは今日に至るまで姉妹校として親しい関係に続けている。

以上、フィラデルフィア日米協会が発行しました「フィラデルフィアと日本を結ぶ歴史的絆」からの引用です。

【そこで、何故、これを紹介したか?】
そこには、面白い関係が存在する:
・今回参加するキャンプの開催地がフィラデルフィアである
・更に、開催するキャンパス(スワースモア大学)は、ブリンマーと姉妹校である

・更に、今回参加するキャンプの主催者は、女子スポーツを確立させた上で、多大なる貢献をしている
http://kikoyuka.com/team_yuka/cathy01.html

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